昭和46年07月24日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。」
身体はちびるものではないから働くがよい。ところがお互い人間の考え方の中に、出来るだけ体は楽をして、そして人一倍儲けようと。云うなら頭で行こうと言った様な考え方の人が多い様ですね。この御理解を頂いておりますと、所謂馬鹿らしい事ばっかり云うてありますね。売り場買い場を大事にすると言う事でもです。例えば仕入れの所の買い場をを大事にする。買い場を仕入れ先の方に喜んで貰う商売人になりたい。
仕入れ先を喜ばせるどころか、それこそ仕入れを詰めた上にも詰めて、もうあそこには売らん方が良かばってんがち、云う様な所がありますよね。そうな値切る。だから売らん方が良かばってん、矢張り数をどんどんはかするから、やっぱ頼まにゃと云うごたる様な行き方。売り場の上に於いてもそうです。人が十銭かけるものなら八銭かけとけと。しかも体は一生懸命働けと。いわゆる分の悪い話であり、いわばお互いが願っていない、いわば反対の事をここでは言うておられます。
これは信心をさせて頂く者の姿勢と申しましょうかね。所謂そこん所を修行と頂く訳です。不思議に教祖様の御教えを、教祖様がこう教えて下さるから行じるのだと云う事になって来る。昨日ちょうどもうやんがて十二時という頃だったでしょうか、元椛目におりました生野と云う私の友人です。まぁ大変子供の時から気が合うと云うですか、もう本当にどっちがよか商売人になるじゃろうかち言うちから、近所の人が評判する位に商売人です。私は荘島の酒屋に番頭に行き、彼は細工町でしたかね。
金原さんと云う大きな乾物なんかの問屋に参りました途中まで。まぁそういう子供の時には、二人で話し合って、あちらのお父さんから、商売するならソロバンが利かにゃ出来んち云うので、まぁソロバンを二人で習わせて貰うたり、それから夏休みには二人でいろんな商いを致しましたり、好きだったですね。彼も好きだった。ですからやっぱ本当に商売で成功いたしております。九州では蜂蜜を扱うのでは、一番だそうです。生野蜂蜜と云う蜂蜜を出しております。なまのとは生野と書いてある。
そしてなまのと読む。これが全国でも大変に有名になって、問題になる位有名になっておる。それはもう今度沢山土地を買いましてね。だから普請もするし子供達にも一人一人、買い家を建ててやると云う様に、云うなら椛目の成功者の一人です。そして突然昨日尋ねて参りましてからね。もう永年マルエーですね淵上です。何とかと言う名前が変わってる。そちらにもう永年蜂蜜だけは一手で出してる。
とにかく月に五百万から売るそうですから、蜂蜜だけで。あれは皆の店ですから、蜂蜜だけでも馬鹿にならぬですよね。ところがね訳も言わずにですね、何処から命令が出るのか知らんけれども、もう生野の蜂蜜は仕入れるなと云うことになった。だからそれは良いけど、その為に例えば、商標のあの、レッテルでも、向こうのデパートのあれを作ってしとりますから、あまり目の玉に指突っ込むごと言われるから、一つ社長に会いたいと思うておる。そして私のことを思い出したという訳なんですよね。
あちらは金光様の信者ち言う話じゃから。まぁここに参って来る様なことないだろうかと、何なら一遍、紹介状の一つも書いてくれれば、それを持って話に行こうと思いよると云う訳なんです。実はこの頃から、片岡仁左衛門から書いて貰った絵に賛を書いてくれと言うて、古屋さんを通してから頼みに来たのが、そのマルエーの大将なんですよね。淵上の大将なんです。お父さんは私は毎日福岡の教会で、もう毎日、まだ電車のある前に、あちらから歩いてね、軍服を着て外套を被っていつも一緒になるです。
朝参りをさせて頂いて、よく知っておるけれども。息子さんと云う人は知らない。だから、ちょっとその辺の関係はあったけれども知らないけれどもと言うて、話したことでございましたがね。彼が言うのに、本当に商売は正直に行かにゃいかんと思うばってん、今、大坪君、正直で行きよるなら、絶対潰れてしまうち言うです。又は或る場合には人の裏をかく様な生き方もしなければ成功は出来んち言う、商売では。それを聞きながらしかしこれは、信心の無い人達の世界だと私は思うて。
その中に、本当にあちらの店は正直だ、あちらの店は、売り場買い場を大事にされる。なるほど他所が十銭なら、あそこは八銭で売られると云うことをです。その店のモットーとして商売が出来る様な商売人がお道の信者の中から出て来ないものだろうかと、私は思うた。それは実際難しいこと。私自身が商売させて頂いてです、十銭のものなら十一銭で売ることがおかげという様に思うとったですからね、私はその代わり、儲った分だけ神様にお供えする。誰でもお供えしますよね。
余分に高う売らせて頂いたら。まあ極端に云うとそういう事ではね。ここで仰る本当のおかげにならない。昨日の一時の御祈念の後に頂いております御理解の様にですね。御理解七十一節。例えば野球を見物する。多くの観衆中で試合をする選手達。見物するのも楽しいが、試合をする人達はもっと楽しく日頃の練習にものを言わせ、実力を競い合う喜び、勝っても負けても又格別であろう様にとあります。これはどういう事かと云うと、金光様の御信心はね見るだけじゃない、聞くだけじゃいかんと云うこと。
観衆であってはいけないち言うこと。本当に教祖の教えの実践者にならなければ駄目だと。いわゆる道の行者にならなければ駄目だと。教祖様がそう教えておられるのであるから、やはりそれをモットーとして商売をさせて頂く。だから商売の事はその位に致しましてね。だからここでは結局売ることも買うことも、損の立場に立てという事です。楽をして、出来るだけ楽してから余計、金儲けしようと思うとるのに、反対に体はちびるものじゃないから働けとこう言うておられる。
けれどもそういう行そのものがです、その実践をすることがです、私は中で選手達が野球の試合をやっておる様に、そういうおかげを受ける。そういう教えを本気で身を持って行じさせて頂いて、そこには五と五と足せば十にしかならない。こげんすりゃ損なことは分かっとるけれども、いわゆる、ここでも、ちょっと仰っておられますが、目先は損の様でも余計売れるからと仰るように、損して得取れと言う、不思議な、そこから利が回って来る。それがおかげだ。
だからそういう生き方をです、金光様の信心者信奉者は、身につけて行かなければならない。だからこれは商売をしとらなくても、いつも自分は損な立場にある、馬鹿を見る。昨日、金光教常盤台教会という所、明石と云う本を送ってきて下さってある。その中に、こういう事が書いてある。自分を捨てて相手を立てる。そんな馬鹿らしいことがあるか、出来るかと言わないで、自己を去って、相手を生かして見て下さい。そこに双方が立ち行く道が生まれます。
私利私欲にばかり捕らわれていると、取り返しのつかない自滅の淵に落ちてしまいます。相手を生かし、その相手に生かされて、真の幸福の道を歩みましょうとあります。私は信心はこれだと思うんです。もう自他共に立ち行くのです。私利私欲ばかりに捕らわれていると、成程、良いけれども、そこには、いわば、取り返しのつかない自滅の淵に落ちてしまう。例えば、昨日、私が、友人の生野君の場合なんかはですね、そういう感じがせんでもない訳ですね。
なかなか商売人しかもこの人は、本当によう働くのです。もう実に働きます。けれどもその永年の自分のところの、云うならドル箱になっとる様な大きなお得意さんから、訳も言わずに、もう生野の密は買うなと云うて来た事になって来ておるというのである。その為に、又どの位損害を被るか分からない事が、実はあるのだと、それに続いて。だからどうでも、社長その人に会いたいとこう行っておる様に。
信心させて頂いておるとね、有難い事に私があの、福岡で商売させて頂いておる頃お店の方が三人私共四人、それに炊事の方をして下さる方が店に働いて下さる人の奥さんと共に五人でした。朝の御祈念から帰って参りますと、まだあの姪の浜のこっちの愛宕下という所におる時分でした。福岡の教会に朝参りをして帰って参りますと、まだ休んでおります。そすとその三人の自転車と私の自転車、四台を起きるまでに綺麗に拭いてしまいます、自転車を。そして表の清掃を全部致します。
それでもまだ起きません。それから奥さんが起きてから、ぼつぼつ炊事の用意をするから、それの、いろいろな手伝いもさせて貰います。その時分はお芋御飯でした、毎朝芋を刻んで入れるのですよね。遅配欠配あの時代ですから。そしてお食事の時には私は芋ばっかり選って頂きました。私が主人ですよ馬鹿らしい話です。だから自分がこげんして見せて、子供達もさせよる。そんなけちな思いは毛頭ありません。もうそうしなければおられなかったんです。
金光様の御信心はそうなんです。だから俺は主人だから楽をするぞ。俺は主人だから旨いものを食べるぞ。俺には良かとこついでくれ。そういう考え方では絶対お道の行者としては言えないです。その事が有難うして有難うしてこたえんのです。それでいてそんならば、こら大将に良かとこついでくれると云う働きがあれば、是はまた別ですよ。私は金光様の御信心させて頂いて商売させて頂くならばと商売の事ですけれども。
私が店主だからと云うてねそういう考え方では、もう教祖の御教えにもとりますからおかげにならんです。いわゆる親父風ばっかり吹かせとったんでは。そうしなければならんじゃない、そうしなければおられない様に教えられてあるのですから。ここんところをみると、どこを見ても嫌な立場、損な立場を有難く受けて行けということですね。常盤台の教会の先生が言っておられることも、やっぱそうです。
自分を捨てて相手を立てる。そんな馬鹿らしい事が出来るかと言わずに、自己を去って相手を生かして見て下さいと言うておられる。そこに双方が立ち行く道が生まれます。いや双方と言うよりも、馬鹿を見る私自身が先ず助かります。自分は店主だからゆっくり寝とってよかてんなんてんち言う様な、そういう考えはお道の信心によって、絶対成功しません。せんけんでなくてそうしなければおられない信心を頂かなきゃならん。教祖がああ仰るからそれを素直に「はい」と受けれる信心を頂かなければならない。
それが見る観衆じゃないのである。その沢山の方じゃない。中で試合をする選手を目指すのである。だから日頃にそれこそ一にも稽古、二にも稽古である。そういう事を通して、稽古をさせて頂く。そこから、あちらのお店は、又は、あの人はと言われる。これは人からも認められる前に、神様から認められるという行き方なんです。いわゆる神様が御承知なんだから。私がお道の信心に依ってですね、おかげを受けると言う事は、是は商売ではなくて普通であっても、ここん所をいつも言うならばですね。
そんな馬鹿らしい事が出来るかと言う事が、有難く出来れる信心にならなければおかげにならん。もうこれは本当にそうでしたね。私朝の御祈念から帰って来てから、四台の自転車をこれはね本当にそうでしたよ。もうそれをさせて頂く事が、有難うして応えじゃったです本当に。自分の乗る自転車位自分で掃除せんか、と云うのではなくてね。一緒にお食事させて貰う時にですね、とにかく芋の所ばっかりを選って頂く事が有難かったです。そこから双方立ち行くと云う事より私が先ず立ち行く道が開けて来る。
それを相手の人がですね、困った事じゃあると云う筈がなか。そげん顔立てられるならば。それこそ当時の今の善導寺の下津つぁんなんか、その中の一人ですけどね。おかげで信心に、みんなが付いて来ました。して見せると言った様なものではなくて、そうしなければおられない、信心とは。売り場買い場を大事にせよと。口銭は人よりもおろかけよと、そして体だけは動かせ。まぁそんなことばっかり云うとられる訳なんです。馬鹿らしいことばっかりなんです。
けどもそれを馬鹿らしいと言わずに行じて見よと言うのです。それが教祖様の教えなんです。だからほんならそれをどういう事かと云うと、お道の行と言うのは、家業の行と云うのはそれなんです。只仕事してさえすればそれが修行。百姓の方が百姓したら、それが行じゃなくて人よりもそれだけ、よく働かせて貰うたり損な立場、馬鹿な立場に立たせて頂く。それを平気で有難くやらせて頂くこと。その事が修行なんです。家業の行とは、そういう事なんです。
それをです教祖様がその様に教えておられるからと思うて、それを頂く。教祖様はそう云うて教えておられるけれども、そげなことしよるなら、とても今時は食べられんごとなってしまうという様なですね。通の人の考え方と信心によっておかげを頂くと云う事が、この様にも違うと云うことを体験させて頂く所からです。私の店のモットー。これは私の家のこれは主義だという様なものがです、その様な素晴らしいところになって来る。教祖の御教えの実践者たれと云う訳です。それが稽古なんですから。
ここで十銭のもんば八銭で売ると云うことは馬鹿らしい。もう十銭で売ったっちゃ売れる。けれども八銭で売れ。その二銭こそが修行なのだ。それこそが稽古なのだ。私は佐田さんなんかのお届を聞かせて頂いてから。おかげを頂くなこの生き方で行くならといつも思うのです。いわゆる中心である所の佐田さんが、もうそれこそもう真っ黒になって働かれる。沢山店員さんもおれば、係の方もおるけれども、しかも他所よりも安う売る。しかも一生懸命働く。そこに信用が集まってこない筈が無い。
商売人に対する御理解は、ここ一つしかないですね。けれどもこれは商売人と云う事ではない。又ほんならわざわざ商売人に対する御理解じゃない。外のみんなの御理解も、皆商売人もやっぱり頂かなければならないご理解。この御理解も同じこと。この御理解は商売に対して、馬鹿らしいところと思われる様な事ばかりを言うてある。けれどもそれが嫌じゃなくて、そうさせて貰わなければおられないと云うものが、原動力になっての日々であり、又は商売でなければいけない。
そこからいわゆる仕入れ先からも喜んで貰え、売り場では尚更喜んで貰い、勿論教祖様は喜んで下さり、神様の心に通う。だからそれから先のおかげと云うのは、これは無限大のもの、限りがないもの。ソロバンの上からはじき出す利益ではない、おかげではない。ソロバンは自分で持つな。神様にソロバンは持って貰え、と言うようなおかげを頂くと言うことはです、矢張り私はこういうところを、本気で行じさせて頂いて、本当に私は、今、思うのですよね。
私は今商売になったらもう大商人になるだろうと、今思うんです。ところが商売をしとる時には自分で自滅にならなければならない様な、ことばっかりをしておる。人が十銭で売るころは十一銭で売って来とる。ですから今これ程に頂いて、教祖の御教えを実践しながらですお商売をさせて頂くなら、本当に大したお商売が出来る様になるであろうと。そういう例えばですね。
正直者が馬鹿を見るとか、例えば当り前のことでは、とても、今の商売人な儲け出しはきらんと、きられんと云われとる中にです、そこにお道の信心をさせて頂いてる商売人だけ位はです。せめてそういう、世の中を清める水すましの様な役前をね、受け持たせて貰いながら、正直者は決して馬鹿を見ません。こういう行き方でも、この様にちゃんと店は立って行きますと云うです実証。いわゆる証を立てて行けれる信者でありたいと思いますですね。
どうぞ。